◆指導者紹介・指導理念・生い立ち
~指導者紹介~
【近藤 洋先生】
剣道四段
愛知県東郷町出身、息子が少年剣道を始めると同時に再開。
兵道四段の二刀流の達人!
【久野 靖典先生】
剣道四段
愛知県名古屋市出身、東丘少年剣友会で剣道をはじめ同朋高校で和田先生に師事、体重30kg減量に成功し活躍しました。平成9年より指導員を務めています。
【内藤 雄輝先生】
剣道六段
【小林 先生】
~東丘少年剣友会の生い立ち~
・昭和40年当時『有松町の剣道クラブ』が有松中学校の体育館で稽古をしていました。
・昭和34年4月に名古屋市最大規模の鳴海団地が出来、この地区は急に人口が増え始め鳴海ヶ丘幼稚園、東丘小学校、少し遅れて東陵中学校が出来ました。
・この新しい団地に駐在した鳥居豊先生が団地の子供達を有松中学校での剣道教室に送迎していました。その頃の指導者には水上邦彦先生と父兄で剣道経験者、後の東丘少年剣友会の代表里見恭二郎先生がいました。
その後、有松中学の体育館が使用できなくなり鳥居豊先生が東丘小学校の校長先生と交渉し週2回使用することが許可されました。当時はまだ世間の一部では占領政策の影響が残っていて学校によっては剣道に対して無理解のところも多くあったようですが東丘小学校の校長先生は快く貸してくれたばかりではなくその後も色々と協力してくれました。
・東丘小学校に移ってからは有松小学校の生徒も参加するようになり30人以上の会員になったこともありました。指導者も里見先生、水上先生や三菱自動車の若手剣道部員に助けられながら運営されていました。その頃から東丘少年剣友会の名称を使うようになりました。
・当時、鳴海町の剣道教室の指導者を中心に土屋徳男師範を代表とする緑区剣道連盟が出来て緑区剣道大会などが模様されるようになりました。土屋師範は戦後できた剣道連盟の方針がスポーツ化を前提にGHQの許可を受けて活動していたのに対し、占領政策の束縛を受けなくなってから出来た武徳会が戦前の『武徳会』の伝統を継承するものとして両者の融合を図りたいという考えを基に運営されていましたが、昭和56年土屋先生が亡くなられてから数年した頃、名古屋市剣道連盟の下部組織として新たに緑区剣道連盟が発足し今までの緑区剣道連盟とが対立し東丘少年剣友会はどちらにも属さず独自の道を歩み始めました。
・宮本先生は昭和60年頃から指導にあたるようになり、まもなく林先生が当時盛んになっていた家庭婦人剣道愛好家として稽古に参加するようになりました。久野先生は小学生の初心者として稽古をするのを嫌がっていました。里見先生は平成5年頃愛知での仕事を終え故郷の東京に戻られました。その時、宮本先生が代表となり、支援のための後援会を組織し、引き継がれました。
~指導理念~
【1本を取りたい】
打つことだけを考えても、1本には繋がりません。
1本に繋げる為に機会を感じる事が大切です。
その為には、呼吸法を考える事も重要なポイントと考えています。
【まじめに稽古する事と真剣に稽古する事】
毎回休まず稽古しても強くなりません。上手にもなりません。
でも、強くなれます。上手にもなれます。
『今この空間で、この時間内に自分は何をするのか? 真剣に稽古する。』
『今この空間で、この時間内に自分は何をするのか?まじめに稽古する。』
一本を取るためには、どちらの稽古をすることが必要でしょうか?
答えは、まじめに稽古する事だけでは、一本は取れません。目的目標を持ち、真剣に稽古する事です。
今打っている一振りの技を一本にする、と言う真剣な稽古です。
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